ある小説家の踠き
生き苦しい。
その感情こそが小説家としての後藤美和子の原点だ。
他人と関わる息苦しさ。自分と社会の確執が大きいことによる生き苦しさ。
何より生きることに向いていなかったのだ。
それでも美和子は死のうと思ったことはない。
美和子はめんどくさいことに他人と関わることは嫌いだが、他人への好奇心は尽きなかったのだ。
「なんでこのパンが好きなの?」
「なんでこの大学に行きたいの?」
「なんでこの人が好きなの?」
他人のプライバシーに踏み込む癖はありながらも、自分のことは何も語らない。悟られたくない。
そんな美和子に友達はほとんどいなかった。
ただ1人の親友、本村日菜を除いては。
*
担当の桜井は慣れない手付きで林檎を剥いていた。
「どうぞ」
病室の窓は開いており、12月の木枯らしが身体を冷やす。美和子は皿に置かれた林檎を取り、震えながらも一口ずつ食べた。
「先生、寒くないですか?」
桜井は不安げな顔で尋ねると、
「いや、このままでいい」
美和子は即答した。小説家の考えていることはわからない。寒ければ窓を閉めるという普通の感覚がないのだ。
「先生の作品、売れ行きは好調ですよ。早く元気になって、良い作品を送り出していきましょう」
桜井は笑顔で美和子に報告するが、美和子は仏頂面のままだった。
窓の横に置かれたシルクのドレスを纏ったフランス人形は悲しげに美和子を見つめていた。
*
これまでの美和子の作品は、ミステリーやSFなどとにかく現実離れしたものが多かったが、作り込まれた世界観やキャラクターが人気を集めていた。〆切も破らずに、ただひたすらに現実から逃げるために書き続けてきた。
…だがいい加減、世界と現実と向き合わなければならない。
自分の終わりの刻も近づいているからだ。
膵臓癌に蝕まれていた美和子は、咄嗟に最後の題材を決めた。
「青春」
自分自身が経験してこなかったもの。あるいは経験していたかもしれなかったが、自分の手で掴み損ねたもの。
とにかく登場人物全員が何かを掴み取り、幸せになれるような青春群像劇を書いてみたいと思っていた。
ただ、自分だけは幸せになってはいけない。
青春を謳歌するという誓いを守れなかったのだから。
*
「そうですか、でも私に幸せになる資格なんてないですから」
美和子は桜井と目を合わせずに、不甲斐ない一言を吐き捨てた。桜井は気まずそうに苦笑いを浮かべた。
「桜井さんは今幸せですか?」
「え?まあ幸せですかね」
「どうして?」
「仕事も順調ですし、旦那とも仲良いからですね」
桜井は美和子の唐突な質問に戸惑いながらも、笑顔で応える。
「旦那さんのことはずっと愛してるんですか?」
「な、なんですか!恥ずかしい…」
桜井は少し顔を赤らめながらも、
「まあ…ずっと好きではいたいです…」
美和子は一瞬苦笑するも、すぐに真顔で
「ずっと愛せる自信はあるんですか?今この瞬間に死んだとしても」
「な…」
「人を愛すという覚悟は、愛する人が骨になるまで持ち続けなければ意味はないと思うんです」
「…いやそこまでは、考えてなかったです」
桜井は顔を曇らせた。
「そうですか」
再び美和子は目を背け、横になった。
「で、では失礼します。お大事にしてください、先生」
桜井は足早に病室を後にした。
美和子は横になりながら、フランス人形を見つめていた。
フランス人形を見つめながら、美和子は思う。
最後の最後だからこそ、
亡くなった唯一の親友に向けたラブレターを。
届くはずのない愛を。顔もわからない読者にぶち撒けて、自分も天国に行きたい。
後藤美和子の最後の作品「True Spring」は数日前に出版されていた。
*
美和子はエゴサーチをたまにする。
自分の作品の評判は気になるものであり、よく自分の作品名をTwitterで検索することが多い。
大概の場合、賛否両論は五分五分の割合で繰り広げられている。
「True Spring」が発売されて1週間後、美和子は例によってエゴサーチをしていた。
だが、評価というものは時には残酷だ。
今までの後藤美和子作品とは180°違う、今回の「True Spring」は酷評塗れであった。
「バカげた青春」「キモオタラノベかよw」「作者の人生の底が知れる」「今までの作品全部燃やしたわ」「作者死ね」
作品に対する罵詈雑言や作者への誹謗中傷が後を絶えない醜悪な光景が見られた。
おそらく桜井は病気の私を気遣って、嘘の報告をしたのだろう。
気づいた時には、無言でひたすら枕を叩きつけた。なぜ、わかってもらえない。私は、今にも死ぬかもしれない身体で足掻き続けていたのに。
なぜ、人生までバカにされなければならない。
私は今まで濁流の中で生き続けたというのに。
喉が引き裂かれるまで叫び出したい思いを胸にしまいながら、それでも枕を叩きつける。
枕からは羽毛が少しずつ飛び出て行く。
しばらく暴れると、美和子はベッドに塞ぎ込み、そのまま小声で呟いた。
「結局私には青春なんて理解できないのか、くそったれめ」
青春への憧れと怒り、そして妬みを込め、その言葉を漏らした。
*
「いつか私もまた学校に行きたいなぁ」
小児科の病室から2人の少女の声が聞こえてくる。
中学2年生の後藤美和子と、青春を知らない少女、本村日菜が談笑していた。
「行けるようになるよ、絶対」
美和子は林檎を剥きながら答えた。
「うん。私も美和と中学校行きたい」
日菜は寂しげな表情で呟いた。
「はい、剥けたよ」
「わぁうさぎさんだ、懐かしい」
日菜は笑顔でりんごに夢中になっていた。
同じ中学2年生なのに子供みたいだ。
「ねえ、美和は学校楽しい?」
りんごをむしゃむしゃ食べながら、日菜は美和子に質問する。
「なによ、急に。別に楽しくはないよ」
「えーなんでよー」
「だって友達とか作るのだるいし、本読んでる方が楽しいし」
日菜は不機嫌そうに答えた。
「勿体ないよ。せっかく毎日学校にいるのに」
日菜は小児がんでもう2年近く入院している。学校に行ったのは小学6年生の時が最後だ。日菜が学校を羨ましがるのも無理はない。
「だって、学校にいるだけで毎日色んな人に会えるし、同じ時間を共有できるんだよ?楽しくならない?」
美和子は怪訝な顔をしている。
「毎日いるからこそわからなくなるのかも」
「えー私もそうなりた…ゴホッ…ゴホッ」
日菜は突如として、咳き込んだ。
「ひ、日菜?大丈夫…?待ってて、今お医者さん呼んでくる」
「待って、大丈夫…大丈夫だから」
日菜は強く引き留めた。
「でも、ちょっとでいいから手握っててくれないかな」
「うん…」
美和子は日菜の右手を優しく握りしめた。
「私、学校はつまらないけど…日菜といる時だけは楽しい」
「…嬉しいなぁ」
日菜はゆっくりと顔をほこらばせた。
「日菜と一緒だったら学校も楽しくなるのかな、青春っていうのがわかるのかな」
「きっとわかるよ、美和なら…」
日菜は顔を曇らせていた。
「私にはもう無理だけど」
日菜の弱気な一言を聞いた美和子は呆然とする。
「な、何言ってるの、日菜?」
日菜は俯く。
「日菜らしくないなぁ」
美和子は少し笑顔で冗談ぽくごまかした。
「私たぶん明日か明後日には死んじゃうんだ、さっきお母さんとお医者さんが話してるの聞いちゃった」
いつもより低いトーンで話す日菜に、美和子は戸惑いの色を隠せなかった。
「うそ。だってもうすぐ元気になるって、一緒に学校行けるって行ってたじゃん…」
涙がわくように溢れ出てきた美和子は、必死に自分を抑えようとしていた。
そんな様子を見た日菜は語り続けた。
「私、友達たくさん作って、一緒に笑って、たまには喧嘩して、先生に怒られて、いっぱい恋をするみたいなそんな青春が送りたかったなぁ。もちろん美和ともね。悔しいなぁ…寂しいなぁ……思い出作りたかったなぁ」
日菜は、自分の思いを吐き出した後、美和子の胸にすがり、赤ん坊のように泣きじゃくった。
美和子は日菜の身体を両手で強く抱きしめる。
「うん…うん…私が絶対日菜に青春を見せるからね…日菜が天国に行っても、日菜がいつまでも幸せでいられるように私頑張るからね…」
その瞬間に、小説家を目指すというあまりに果てしない人生を賭した戦いを覚悟した。
その後、日菜が落ち着くまで1時間ほど側にいた。
何度も何度も強く手を握りしめ、抱きしめる。
そして、今泣き疲れた日菜は眠りについている。
頬と目の縁にさっきまで泣いていた痕跡がまだ残っていた。
そんな日菜を見ながら、
「……おやすみ、日菜……。……よく……よく……頑張ったね……」
その2日後に日菜は静かに息を引き取った。
*
…現実は上手くいかなかった。
かつて誓った夢は果たせず、今自分の命の灯火も消えようとしている。
小説家として大成することはできたが、やはり自分の人生には満足はできていない。
学生時代、自分なりに青春を謳歌しようとしたが、誰からも相手にされなかった。
どんなに辛くても1人で足掻き続けてきた。
それでも、最高の青春を実現することは、とてもじゃないが無理だった。
そして、最後の最後に、自分が描き出した理想としていた青春が、日菜への愛が、顔も知らない奴らに粉々に打ち砕かれた。
私はただ日菜という女の子を理解してもらいたかっただけなのに。日菜と過ごせたかもしれない人生を創り出したかっただけなのに。
…なぜボロクソに捨てられなければならない。
「いや当たり前かもしれないな」
そう呟くと、美和子はふと我に返っていた。
これまで美和子は、読者の感性を信じて作品を送り出してきた。読者への愛を忘れずにただひたすらに、読者を楽しませることを意識しながら、現実離れした作品を書き綴っていた。
だが、「True Spring」では日菜への愚直なまでにひたむきな『愛』を垂れ流しにしていた。
心のどこかで、自分の読者には自分の傲慢な愛が届くだろう。いや、届いてほしい。届いてくれ。
そう勝手に思い込んでいた。
そうだ。最後の最後に裏切ったのは私だ。
私の中にいる日菜が……………私を殺した。
認めたくない真実に、気が狂いそうになる。
大好きだった親友が、私の心の中に生き続けていた親友が、小説家としての私を殺した。
まだ身体は生きているのに。心臓は動いているのに。
たとえどんなに世界が生き苦しくても、私は私であり続けると思っていたのに。
私自身はもう死んでしまった。
気づいた時には、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「私の物語はもうここまででいい」
美和子を見つめるフランス人形のビスク・ドールが取れ、床にコンコンと落ちていった。